「尊厳」の誕生を探ろう尊厳の歴史的変遷とAI時代の「尊厳」について議論
山内 志朗
慶應義塾大学文学部 名誉教授
永井 聖士
株式会社電通
代表取締役副社長執行役員
石田 京子
慶應義塾大学文学部 教授
松田 隆美
慶應義塾大学文学部 名誉教授
牛場 潤一
慶應義塾大学理工学部 教授
出雲井 亨
東京半島株式会社 代表取締役
そもそも「人間の尊厳」とは何か。そう真正面から問われると、なかなか言葉が出てこない人も多いのではないだろうか。
2025年9月4日に開催された「第2回 遊びと人間の尊厳ラウンジ Dignitas bar 〜哲学で夜遊び〜」では、X Dignityセンターの重要なキーワードである「尊厳(dignity)」をテーマに据え、さまざまな観点から語り合った。
「遊びと人間の尊厳ラウンジ」は学問領域や大学内外の垣根を超え自由に開かれた議論の場としてつくられたX Dignityセンターの目玉企画のひとつで、2025年6月に続き2回目の開催となる。今回の司会は慶應義塾大学文学部教授の徳永聡子氏が務めた。
ラウンジの前半では、慶應義塾大学文学部 名誉教授で哲学者の山内志朗氏がゲストスピーカーとして登壇し、「尊厳を哲学する――祭りの雰囲気の中で」と題して講演を行った。
講演:山内志朗名誉教授が「尊厳」の歴史的変遷を考察
山内氏は、尊厳という概念は、歴史を振り返ると「連続性」よりも「多面性」を備えた概念だと指摘する。そして古代ローマ、キリスト教、ルネサンス、近代的、カントと各時代を振り返りながら「尊厳」がどのように捉えられてきたかを概観し、現代における尊厳について考察した。
前提として、山内氏はまず尊厳の辞書的な意味を紹介した。
尊厳
「とうとくおごそかで、おかしがたいこと」(広辞苑)
「犯すべからざる権威と、他の何ものをもっても代えることのできない存在理由」(新明解国語辞典)
続いて、古代ローマにおける尊厳の概念について考察を進めた。
男性の地位や特権を表すローマ的尊厳
古代ローマにおける尊厳(dignitas Romana)について、山内氏は紀元前1世紀の政治家・哲学者であるキケロを参照して説明した。キケロのいうdignitasは現代の「人間の尊厳」とは異なり、社会的な地位や役職、高位を指すものであった。奴隷制を認め、自らも多数の奴隷を抱えていたキケロには一人ひとりを尊重するという発想はなく、dignitasはストア派の厳格な倫理規範を守りながら生活できるローマ市民の男性にのみ認められていた社会的地位だったという。このため女性、奴隷、子供、外国人にdignitasは認められていなかった。当時のdignitasは、外面的な壮健さや偉丈夫さに基づく男性的原理であったようだ。
普遍性と個人の価値の源泉を示す、キリスト教的尊厳
現代に通ずる尊厳の概念は、5世紀の教皇レオ1世の説教に見いだすことができる、と山内氏は紹介した。レオ1世は451年のクリスマス説教で、以下のように語った。
「目覚めよ、人よ、そしてあなたの本性の尊厳(dignitatem tuae naturae)を認識せよ。あなたは神の像に向けて造られたことを思い出せ。それはたとえアダムにおいて破壊されたとしても、キリストにおいて作りかえられたのです」
ここで重要なのは、レオ1世の尊厳概念が2つ尊厳を含んでいることだと山内氏は指摘する。1つは「創造の尊厳」で、人間という種族が持つ尊厳だ。もう1つは「受肉の尊厳」で、こちらはアダムの罪で汚され、受肉によって回復された尊厳である。受肉の尊厳は、神の恩寵によって個人に付与されるものであり、地位や階層とは無関係にすべての人間が持つキリスト教固有の尊厳といえる。
現世における肉体的な尊厳に焦点を当てた、ルネサンス的尊厳
ルネサンス的尊厳論は、1198年ごろにロタリオ(教皇インノケンティウス3世)が著した『人間の状況の悲惨さ』への応答として書かれた文献に見ることができる。ロタリオの書が人間の生を惨めな過程として記述したのに対し、ルネサンスの思想家たちは、人間の生における尊厳を語ろうとした。
この時代の尊厳概念は、現世における肉体的側面における尊厳という視点に基づいており、精神的な側面を重視したキリスト教的尊厳とは対極的であると山内氏は指摘した。
プーフェンドルフが示した近代的尊厳
17世紀以降、尊厳概念は、他の被造物との比較優位を示す従来の概念にとどまらず、独自の意味を持ち始める。比較という論点が後退した理由として、山内氏は、宗教改革を主導したルターとカルヴァンが、全面的堕落という人間の立場を強調したことが影響していると考える。「すべての人間が堕落」しているという発想のもとでは比較は意味を持たないためだ。
この近代的尊厳として、山内氏は17世紀ドイツの法学者サミュエル・プーフェンドルフの『自然法にもとづく人間と市民の義務』を引用した。
人間は自己保存にきわめて熱心な動物であるばかりでなく、生まれつき自己評価(sui aestimatio)にある種の感じやすさを持つ(delicata)動物でもある。それが傷つけられると、身体か所有物に存在が生じた場合と同様に、しばしば動揺するのがふつうである。さらに、人間という言葉自体にある尊厳(dignatio)が含まれていると考えられる
プーフェンドルフはこのように記し、私たちは他の人間を「自分と本性上平等なるものとして、あるいは平等な人間として、評価し扱わねばならぬ」と説いた。
人間性はそれ自体が尊厳である、としたカント的尊厳
これに対し、18世紀ドイツの哲学者であるイマヌエル・カントは、尊厳を人格性の不可侵の特徴とし、「人間性はそれ自体が尊厳である」と主張した。人間は誰であろうとも単なる手段として用いられてはならず、常に同時に、目的として用いられなければならない、というのがカントの考えだ。
価格を持つものは、等価を持つ別のものと置き換えられる。一方、尊厳は価格を超越し、いかなる等価物も認められないとカントはいう。その条件として、自身で規則を打ち立てそれに従う、オートノミー(自律)の能力があることを挙げた。
一方で、カントの「すべてのものは尊厳を有する」という普遍的平等主義的な尊厳は、尊厳が相互に対立するケースもあり、何に適用できるのか分からない空虚なコンセプトである、という指摘があることも山内氏は紹介した。
これらを踏まえ、山内氏は「尊厳」を「短く、一人ひとりが使える」概念として示していくことが重要だと呼びかけ、講演を締めくくった。
ポップカルチャーに見る尊厳について参加者が議論
講演後、参加者たちは「尊厳が裏テーマになっている作品」(ドラマ、アニメ、映画など)を選び、なぜそう思えるかを各テーブルで議論した。そこで発表されたいくつかの議論を紹介する。
あるグループは、『ドラえもん』を取り上げた。通常のアニメシリーズでは、のび太とジャイアンの関係性はいじめっ子といじめられっ子のような関係だが、劇場版においてはジャイアンが利害計算を超えて友のために立ち上がる存在となる。ここに見られる尊厳的なものが、映画の視聴者を感動させる要素になっていると考察した。
歌舞伎の世界を描いた映画『国宝』を取り上げたグループは、芸を極める主人公の影で、彼らを支える裏方の人々の尊厳はあまり深く描かれてない側面がある、と指摘した。かつてローマ市民にのみ尊厳が認められ、奴隷の尊厳が無視されたというキケロ的な側面が、現代の芸事の世界に存在するのでは、という意見も出された。
山内氏は、哲学というのは「ハビトゥス」、つまり頭で概念として理解するのではなく、身体と心に染みこんでいて、困ったときに浮かび上がってくるものでなければならない、という。尊厳についても、単にカントの本を読んで「尊厳は大事だ」と頭で考えるのではなく、日常生活の中でふと頭に浮かぶようになるといいと語り、会場に集まった全員が継続的に尊厳について考えることを促した。
座談会:AI時代の尊厳について多面的な議論が展開
講演とディスカッションに続き、文学、哲学、ビジネスの視点から「尊厳」を掘り下げる座談会が行われた。登壇したのは、カント研究者の石田京子氏(慶應義塾大学文学部 教授)、ビジネス界から永井聖士氏(株式会社電通 代表取締役副社長執行役員)、中世文学を専門とする松田隆美氏(慶應義塾大学文学部 名誉教授)、そして前半で講演を行った山内志朗氏(慶應義塾大学文学部 名誉教授)の4名。牛場潤一氏(慶應義塾大学理工学部 教授)がモデレーターを務めた。本セッションでは、山内氏が講演で紹介した歴史的な尊厳概念を踏まえ、現代、特にAI(人工知能)との関係性にいかに適用すべきかという議論が交わされた。
松田氏は山内氏の講演を受け、中世文学の視点から、尊厳が「社会的な地位」に宿るのか、それとも「個人の関係性」に宿るのかを考察。アーサー王物語に登場する騎士ランスロットを例に挙げ、彼が罪人の乗る荷車に乗ることを躊躇した場面を紹介した。
「ランスロットは高貴な騎士だから、自らの尊厳が守れるかどうかを危惧して躊躇しました。しかし、王妃ギネヴィアは、恋人を救うためにその尊厳を捨てられないことこそが、恋人としての尊厳を欠いているのではないかと反論します」このように「地位という社会的文脈における尊厳」と「愛する人との個人的な関係における尊厳」が衝突する点に、尊厳という概念の奥深さがあると松田氏は指摘した。
カント研究者の石田氏は、カント的尊厳が「重すぎる」ために日常で使いにくいと述べつつも、その核心にある「等価物のない価値」について語った。
「カントの尊厳は、そこにあるということだけで価値がある、他のものと交換することができないということ。道具なら壊れれば替えがあるが、人間は取り替えが効かない存在として定義されているところがカント的な尊厳の好きなところです」と石田氏は解説した。
電通の永井氏は、AIに尊厳があるかを考える際の焦点は、AIを「他者」として認めるかどうかにあると述べ、直感的に考えるとその基準は「感情を持つか」ではないかと語った。AIの提案に啓発されたり、共感したり、あるいはAIに負けたと感じたりした時点で、それは「他者」として成立し、そこに尊厳が発生する可能性があるのではないかと考察した。
これを受け、モデレーターの牛場氏は、ChatGPTがバージョン4からバージョン5に変わった際「急に冷たい性格になってしまった」「可愛らしく寄り添ってくれた4の方に戻したい」という声が上がったことを紹介。牛場氏は、いまやAI開発企業が「ペルソナ」や「尊厳」そのものをエンジニアリングする時代に突入しているのではないか、と指摘した。
その後も、AI時代における尊厳とは何かをテーマに、登壇者および会場全体を巻き込んで議論が交わされた。
牛場氏は、本イベントを通じて、X Dignityセンターの「1丁目1番地」にある「尊厳」を、身近な概念として再認識できたと振り返った。そして「明日からの日常に触れるときに、物事を見るレンズが一層豊かになったのではないか」と述べ、セッションを締めくくった。
ラウンジに参加した学生の声
・佐竹 和香氏(慶應義塾大学大学院 文学研究科 哲学・倫理学専攻 哲学分野 後期博士課程2年)
私は哲学・倫理学を専攻していますが、『尊厳』という言葉に自分なりの明確な定義を持っていなかったため、興味を持ち参加しました。最も驚いたのは、山内先生がAIにも尊厳を認める可能性を示唆されたことです。中世の知性論を研究する身としては、知性は神、天使、人間だけが持つ特権的なものだという世界観があります。しかし参加者の中にも、「AIに尊厳を認める」と考える方は多く、新鮮でした。
また、今回のラウンジではアカデミアだけでなく社会で活躍される方も多く参加されており、自分の専門領域ではなかなか出会えない鋭い視点に触れることができました。分野を大きく越えるからこそ生まれる新たな気づきは、とても大事だと思います。
・久保田 風史郎氏(慶應義塾大学 文学研究科 英米文学専攻 英文学分野 修士課程1年)
私は大学院で中世文学を研究しており、哲学や神学とのつながりに興味を持ち参加しました。特に印象深かったのは、松田隆美先生が「中世の物語は主人公が冒険などを通じて尊厳を自分から求めていくようなものとして読めるのではないか」とおっしゃっていたことで、面白い視点だと思いました。またディスカッションではテレビ局の方と同じグループで、報道現場で「死者の尊厳」をどう扱うかなど、貴重なお話も伺うことができました。
このラウンジでは、普段なかなか接点がない企業の方とお話しできるのが大きな魅力のひとつです。第1回、第2回はいずれもアカデミア中心の講演でしたが、今後は企業の方が講演するような機会も面白そうだと感じました。
(執筆:出雲井 亨、撮影:久保田 風史郎)
※一部画像はイメージです(生成AIを利用して制作しています)