【開催報告】ブックトーク「触」発する思考ー文芸共和国から始まるお喋りの世界ー(2025.7.14開催)
2025年7月14日にブックトーク「触」発する思考ー文芸共和国から始まるお喋りの世界ーが慶應義塾大学三田キャンパスで開催されました。
1.開催概要
人の数だけ、あるいはそれ以上に、多様な「本の読み方」があり、本の数だけ、あるいはそれ以上に、様々な「言葉とのつながり」が存在する。本ブックトークでは、専門分野によって活動圏が区分された三田キャンパスにおいて、普段は学び/研究の場を共にしない「異なった人々」を誘い出し、自身の「身近な本を語る」行為を通じて、各自の知見や体験の交差を試みる。本企画は、日吉キャンパスで実践される「総合」的な学術体験、「頭のてっぺんからつま先まで」全身を以て行う知的遭遇を、三田キャンパスにおいても展開する試みとも言える。クロス=交差の焦点は、個人や専攻分野のみならず、学年や職位といった学びのステージ、さらには上記のキャンパス間のつながりも意識している。
今回のブックトークでは、文学部独文学専攻より川島建太郎先生および片山有由子先生をお迎えし、徳永聡子先生に全体統括をお願いし、企画担当者である若澤佑典の近著、『文芸共和国の歩き方:書棚を遊歩するためのキーワード集』を入り口として、読むことから触れること、触れることから言葉と全身で戯れること、言葉で遊ぶことから自身の体験について語ること、といったように、「思考の手触り」プロジェクトをめぐるキーフレーズの探究と布置を行った。授業とも研究会とも違う「トークの場」を醸成するには、物理的空間の雰囲気作りが肝要である。徳永先生によるコーディネートの下、北館会議室を会場予約し、古書に「触れる」ブースを作ったり、お菓子を「つまむ」コーナーを設置することで、日吉キャンパスにある「部室のような空間」を目指した。片山先生の発案により、ボサノヴァのBGMがかけられ、くつろいだ雰囲気の中で「なんだか普段とは違う、何かが起こりそうだ」という期待感と共に、イベントがスタートした。
30人前後の参加があったことに、主催者として嬉しい悲鳴をあげた。ブックトークを始める段階で、すでに会場は人でパンパンの状態であった。文学部2~4年生の参加が中心となり、哲学専攻、仏文学専攻、英米文学専攻、中国文学専攻、社会学専攻、人間科学専攻などなど、一つの分野にとらわれない、幅広い層の来場があった。分野や学年を「クロス」するにあたって、若澤担当の「英書講読」クラス(=全専攻共通科目であり、学年や分野を問わず履修可能)や「英語上級」クラスが、企画の趣旨を伝えるハブとして機能した。上記の授業関係者の中から、5名の学生参加があった。また、西尾宇広先生をはじめとする独文学専攻の広報協力により、当該専攻からの参加者も目立った。文学部以外では、経済学部から学部・大学院生を含め、4名の参加があった。さらにキャンパスを越えて、信濃町から医学部6年生の、日吉からは文学部1年生の参加があった。センターの関係者では、倫理学専攻の石田京子先生が参加くださり、場の賑わいに哲学的思考を加えてくれた。

2.文芸共和国をめぐるブックトーク
イベントの開始にあたっては、若澤より「本について語ることで、三田にゴチャ混ぜの場をつくる」というメッセージをフロアにおくった。ここからゲストによる『文芸共和国の歩き方』へのトーク・レスポンスがつづく。川島先生からは『文芸共和国の歩き方』について、ブックリストにある各書籍の取り上げ方の「ムラ」への指摘があった。当該書は各セクションでテーマごとに、本のリストを提示している。ただし、リストに続く本文でじっくり、たっぷり取り上げられる本もあれば、さほど言及されない本もある。当該書は多種多様な本を読者に提示しつつ、筆者によるそれらの取り扱いは「均質ではない」のはなぜか、という川島先生からの問いである。若澤からは当該書の持つ「空白性」が、まさにブックガイド=ガイドブックたる「歩き方」の核心であることを述べた。当該書の読者には気になったこと、その本の中だけでは分からなかったことを、ぜひ読中・読後に、言及された本を探しに自分の足で、大学図書館や関係する場に向ってほしい。『文芸共和国の歩き方』を片手に、実際に外に出かけ、本棚をウロウロしてもらってはじめて、当該書の意図が達成されるのである。これを端的に示唆するものとして、司会の徳永先生より、当該書の締めの一文「今だ、跳べ!」の重要性が指摘された。『文芸共和国の歩き方』を読み終えることは、ことばの旅の途上であって、終わりではない。また、その更なる冒険を介して、読者は再び「①出掛ける/探検する」のセクションへと「帰郷」する。「ウロウロ」することに加えて「ぐるぐる」すること、その回遊性・周回性が読書をめぐる動きを規定するのである。
片山先生からは『文芸共和国の歩き方』を読む過程において、自身と活字の応答関係の中で、特定のセクションやキーワードが「浮上する」力学について、「⑤食べる/味わう」を事例にレスポンスがあった。日常生活において、私たちは世界全体を均質にまるごと体験しているわけではない。そのとき気になっていること、興味を持っているものが「前」にせり出し、それ以外のものは後退して、我々が生き生きと感じる世界経験には「濃淡」ができる。『文芸共和国の歩き方』についても、例えばお腹がへっている時に眺めれば、「食」や「味」が真っ先に目に入るかもしれない。当該書との応答関係において、我々読者の経験やその時の状況が、『文芸共和国の歩き方』の特定の箇所(の可能性)を引き出す。他方で、当該書のフレーズや文章構造が、読者が抱える「濃淡ある日常世界」の一部を引き出し、アレンジし、その編集過程において「日常世界全体」が再構造化される。こうした「世界/活字の浮上」観を導くものとして、アルフレッド・シュッツの「レリヴァンス理論」が言及された。一冊の本は、更なる本を連れてくる。こうした本と本をめぐる連鎖が生み出せるのも、ブックトークという企画の魅力である。

3.書物=ことばに「触れる」ことをめぐって
読書をめぐる身体感覚については、「本に書き込みをするか」という問いかけが、予想以上の反響をもたらした。ある学生は、物語の世界へと没入するために、あえて文字に線を引いたり書き込んだりしないと言う。彼女が飛び込みたいのは「活字のさらに向こう側にある世界」であり、書き込む行為は「活字という表層=物語世界への境界面」に漂ってしまう、立ち止まってしまう行為なのだという。読むジャンルによって、書き込みを使い分けるという学生もいた。彼にとって書き込みとは、文章の分解や再構築を視覚的に行う、情報処理過程のようなものらしい。従って、学術書であれば書き込みはするが、詩をはじめとする文芸においては、書き込み=バラバラにする行為が、その有機的な言語空間を損なうように感じられるので、書き込みはしないそうだ。川島先生からは、書き込むことが「その本を自分のものにしていくこと」、所有でもあり個別化のプロセスでもあることが指摘された。川島先生の学生時代の英語授業エピソードをひきながら、本とは汚すものであり、使い潰すものという側面を通じ、書き込み作業のもつ固有の「快」が語られた。
さらにフロアを交えたクロス・セッションでは、「私にとって、本は友である」という言明をめぐって、各人の思考表現がスパークした。とある文学部生にとっては、「本は師である」という表現がしっくりくるそうだ。本を読むことで、新たな知識が身につき、思考の地平が開かれ、(大袈裟な言い方になるが)新しい生き方が手に入る。「友」という言葉が示す「水平性」をこえて、書物は読者を上へと引き上げる「垂直的」な力を持っているので、彼にとっては「師」という言葉が、自身と書物の関係性を適切に映し出してくれる。別の文学部生は「本は悪友である」と表現した。彼女にとって、書物から溢れる・飛び出す言葉は、必ずしも規範的なものではなく、時に誘惑や逸脱へのささやきを含んでいる。外の世界では、公の教室ではダメと言われるような発想や行動も、本が示す内の世界であれば、こっそりと実行できる。もっとドライに「本は物である」と言った学生もいた。メタ的な視点から、「本は友である」という言明は比喩表現なのか、あるいは字義通りの意味なのか、という問いかけもあった。『文芸共和国の歩き方』の世界観において答えるならば、これはメタファー的な次元を含みつつも、「〇〇君は私の友人だ」と同じような、字義通りの意味で「この本は私の友だ」という地平を持つのが、この表現の強烈なところであり、尊厳概念との関わりを示唆するポイントであろう。なお、若澤と片山先生は世代的に、「ボールは友達」という『キャプテン翼』のフレーズを想起しながら、全体のやりとりに参加していた。川島先生からは、ゲーテの『若きウェルテルの悩み』の序文においても、親しき友がいない人に向けて、当該書を読者の友としてほしいという言明が見られる、と指摘があった。
本イベントを総括するにあたって、若澤から「本はギフトである」というメッセージを贈った。本は売り物であり、それを購入した時点では、まったく同じ物が山ほど存在する。しかし、それを手に取った時や場、それに関わった人といった「コンテクスト」が付与されることで、「多くの中の一つでしかない」一冊の本が、「その人だけのかけがえのない」一冊になっていく。さらには、かけがえのない一冊を見せたり、貸したり、語ったりする過程において、本に関わる人と人の間に新たなつながりが生まれる。こうした人と本、本を介した人と人の「取り替えのきかないつながり」が創出されていくプロセスに、手触りについて考え試行し、尊厳をあらたな日常のことばで語り直す契機が含まれていると言える。

*「ブック」という単語の語源学的探究や、中世思想をベースにした五感の根っこにあるつながりへの視座、「日常を越えたものは見えないし、触れられないが、その香りは感じられる」という神学的テーゼへの言及も行われた。これらのトピックは企画者の守備範囲をはるかに越えるものであったため、報告文内にうまく要約できなかったが、それらが重要なものであることを付言しておく。
(撮影 久保田 風史郎)